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アナと雪の女王と自己確立と ④

今年はアナ雪一色でしたね。 さて、アナと雪の女王考察(私見です)続きです。

自分一人きりの力や考えでは及ばない事態は多々あります。 ヤスパースの「限界状況」や、釈尊の「四苦八苦」ですね。 このどうしようもない状況を打開するためには、「交わり」が必要なのです。 自分以外の誰かと関わり合って、助け助けられながら、他者からインスピレーションを得ながら成長します。

エルサも自分一人ではどうしようもなかった状況を、アナとの関わりのなかで何かに気付き、自分の過大な力をコントロールすることができるようになり、どうしようもなかった状況を打開することができました。 またそれは、単にアナの表面上の言葉や態度によってではなく、アナのエルサに対する「まごころ」によって触発されています。 何かを変える力は「こころ」で、その「こころ」は自分以外の誰かを思ったものです。

真に頼りとなる自分自身を作り上げるものは、自分一人だけで作り上げるものではなく、他者と交わり、他者の為を思うことで作り上げるものだと気付かされました。 やはり、自己確立と自他共楽はセットですね。 どちらが欠けても達成されません。

本当の力を支えるもの、本当の力の源泉になるものは、愛であり仁であり慈悲です。 イデオロギーも信仰も宗教もすべて、方法や順位が異なるだけで、自分以外の誰かを思うことに変わりはないような気がします。 思えば、親が子を思う心、子が親を慕う心は世界共通であり、当たり前のことですが、そのために見過ごされがちだったのかなと思います。

私たちは大いなる宇宙の流れの中で、見えない何かによって生かされています。 そのことを自覚して謙虚に、ありのままで、身近な誰かの為を思って生きていけたらと思います。 いや、でも、煩悩具足の私ですから、難しいですけどね。 少しずつ、一歩ずつ、わが子らに背中を見せられるように修練していきたいと思います。  合掌

アナと雪の女王と自己確立と ③

アナと雪の女王考察(私見です)の続きです。

エルサ女王は一人でいることを選びました。 自分自身で自分の行く道を選択しました。 が、それは自己確立できたのでしょうか。 ちょっぴり、違うような気がします。

「真に頼れる自分自身」とは、一人で何でもできることではないと思います。 いや、何でもできるに越したことないですけどね。 どんなに一人で出来るといっても、限界は必ずありますし、あらゆる人や物に繋がりがありますから「独りよがり」ではいけません。 また、「ありのままで生きる」とは、「眼横鼻縦」ではないかな~と思います。 現状を受け入れるのです。  エルサ女王はアナ王女と一緒に城に戻り、国民に弁明し、アナ王女や国民と未来を探りながらでも共に生きる道もあったはずです。 女王として、魔法を使える者として、人々を傷つけた者として、今の自分の立場をそのまま受け入れた上で、皆と共により良く生きる道を探ることもできたはずです。 その場その場ですべてを受け入れた上で、自主的に主体的に生きることが「自己確立」ではないかな~と思います。

さて、自分の力に怯えて、「落ち着くのよ!」と自分に言い聞かせながらも、どうしようもなくなっていたエルサ女王ですが、アナ王女の自己犠牲によって、その力をコントロールする方法に気付きます。 それはひょっとしたら、氷の城で長年修行したとしても、気付かなかったかもしれません。

もう少しだけ続きます。

アナと雪の女王と自己確立と ②

アナと雪の女王、金剛禅の視点で考察(公式見解ではありません)続きます。

さて、エルサ女王は罪な人です。 無自覚に力を垂れ流して、「ありのまま」でいられるからと引きこもり、「できないの」ですから。 でも、自分の力に怯えるのなら、コントロールすべく自己分析や研究や修行をすればいいのにな~、なんて思うのは厳しいですよね。 ノースマウンテンに引きこもっているのは、実はその力を完全にコントロールすべく修行していたのだ。 なんてね。 ドラゴンボールの孫悟空だったら迷わずそうしたでしょう(笑)。 でも、そのようにできなかったのは、長年自分自身を押さえつけて、悩み苦しんだせいかもしれませんね。 いや、ひょっとすると、描かれなかったけど修行か研究をしていたのかな。

自己確立とは、自他共楽とともに少林寺拳法の拳士の目指すべきものです。 真に頼りになる、身体も心も健全で、うぬぼれでない自信を得ることです。 力があったとしても、その力を抑えたり自由に使えなければなりません。 また、行動力だけでなく、認知力、判断力なども必要です。 自分自身で選択し、受け入れなければなりません。何をするのかしないのか、何が必要か不必要か、判断するのは自分自身で、すべての結果は自分が選んできた結果であると「わかる」ことが大切です。 すべてに主体的でなければなりません。

エルサ女王は、なりゆきではありますが、結果はどうであれ選びました。 一人でいることを。 自分自身が「ありのまま」でいられるには、一人でいるほうがよいと選んで受け入れました。 でも...さびしいですね。 一人ぼっちはつまらないです。

まだ続きます。

アナと雪の女王と自己確立と ①

「日経トレンディ」の今年のヒット商品1位はやはり、「アナと雪の女王」でしたね。 私も子供と劇場で観たのですが、大変感動しました。 公開されてから、随分と経ちますが、ハロウィーンのコスでも人気があったり、今年の紅白の目玉では、なんて言われていますね。

物語は姉エルサと妹アナのダブルヒロインで進められていきます。 雪と氷を操る魔法を生まれつき使えるエルサですが、アナをその魔法で傷つけたことで、人を避けて閉じこもることになります。 しかし、ナンダカンダで、アナの挺身で愛に気付き、そのことで雪と氷に閉ざされた国を元通りにできたのです。 愛によって力を完全にコントロールできるなんて、力愛不二そのものですが、それはとりあえず措いときます。

このエルサ女王ですが、罪な人です。 滅ぼすくらいの勢いで、国を雪と氷で閉じ込めておきながら、アナ王女が説得に来るまで無自覚だったのですから。 知っていて悪いことをするよりも、知らずに悪いことをする方が罪なのです。 力を抑えたり完全にコントロールできないのに、「ありの~ままの~」なんて能天気にもほどがあります。 アナに会ってからは恐怖と不安で益々力を抑えられなくなります。

恐怖や不安や怒りで力を抑えられなくなるなんて、スターウォーズの「暗黒面」ですね。 (そういえば、ディズニーがスターウォーズを買いましたね。 どうなるんでしょうか。) 私たち少林寺拳法を修練する者は、「暗黒面」に落ちることのないように、修練しましょうね。

続きます。

妖怪ウォッチ ②

妖怪ウォッチ、結構ふかいです。 「すべては妖怪のせい」なのです。 ここに、考えさせられるものが在ります。 この世界は人知を超えた何かによって動かされています。 「ダーマ(ダルマ)」ですね。 そして、この世界は「空」ですから。 善も悪もなく、すべては実態がなく、しかし確かにそこに在り、相対的なものの集まりですね。

ここで重要なのは、そこを分かった上で自分がどのように主体的に生きるかです。 すべては人知を超えた「妖怪」のせいだけど、「おらシラネ~」ではなくて、どのように「妖怪」と向き合って、より良い方向へ向かっていくか、ではないかなと思います。 自分のことだけど、自分という「他人」のために何とかしよう、という考えかた。 「妖怪ウォッチ」では、妖怪ウォッチで妖怪を観て、ときに自分で説得、ときに妖怪を召喚して妖怪によって解決します。 自分自身の力ではないですね。 でも、現状を何とかしようと、自分でメダルを選んで召喚して、自分で妖怪に依頼していますから、主体的ではあります。

すべては「妖怪」のせいかも、です。 でも現状をより良くするために、「自分=他人」のために、心の中の「妖怪ウォッチ」で主体的に解決して、楽しく元気に皆と過していけたらと思います。

合掌

妖怪ウォッチ ①

「妖怪ウォッチ」、子供たちに大人気ですね。 町の人々の悩みや問題を、妖怪の仕業として表現していて、その問題を解決するのに、妖怪を説得します。 退治ではなく、説得です。 あまり善悪をはっきり際立たせていなくて、どの妖怪も愛らしく描かれているんですよね。 相対的というか、妖怪はなにも悪いことをしようとしているのではなく、単にその性質によって人間に影響を与えているだけなのです。 コメディだけど、なんだか深みを感じます。

すべてを妖怪の仕業と思えば、けっこう気が楽です。 朝早く起きられないのは妖怪のせいなのです。 他人の言動に腹を立てるのは妖怪のせいなのです。 すべては自分のせいではなく巡り合わせが悪いせいなのです。 「妖怪のせいだから、気にしない」のです。 このような考え方って、自分を追い詰めないようにしたり、精神的に疲れていたり悩んでいたりといったときの、心のケアといったものになりうるのかなと思います。

ちょっぴり続きます。

ビフォー・アフター

宮崎県都城市高崎町江平の吉村自治公民館で易筋行(少林寺拳法)の修練をしています。

初めてこちらを訪れたときは、正直言って、ものすごく暗くて全体がくすんで見えました。 いやはや、地区のみなさんには失礼かもしれませんが、ちょっぴり今後の修練に不安を覚えました。 しかし今、修練している公民館内部を見ると、何ということでしょう! 輝いて見えるではありませんか。 毎回の作務のおかげなのか、単なる慣れのせいなのか、とにかく輝いて見えるのです。

家は住む人がいなくなると、途端に傷みが早くなるといわれていますが、単にメンテナンスしなくなるからという理由ではなく、人から所謂「気」というものが発しており、その「気」が建物になにかしら良い影響を与えているのではないか、という説があるとかないとか。 おそらく吉村自治公民館も、毎回の作務によるせいもあるかもしれませんが、私たちの修練による元「気」によって輝いているのではないかと思います。 そう信じて、これからも元気に、より輝けるように続けていきたいと思います。

合掌